KBICで働くイノベータ―
FEATURED
PERSON
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KBICで働くイノベータ―
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FILE.09
大鳥 聡AKIRA OHTORI
副所長
情報工学博士
千寿製薬株式会社 オキュラーサイエンス研究所
Interview 2020年2月
普段、多くの人がなにげなく使っている目薬。あまり知られていないが、実は点眼薬を眼に効果的に作用させるのは、至難の業だ。生命維持に必要な情報収集の8割を担う眼は、何重もの防御機能にガードされている。そのうえ生きているヒトの眼を使って実験するなど不可能だ。そこで千寿製薬はIT技術を駆使し、眼内での薬物動態研究に取り組んでいる。その先に見すえているのは、神戸発の革新的な点眼薬の提供だ。
PROFILE
大鳥 聡 千寿製薬株式会社 オキュラーサイエンス研究所副所長 情報工学博士
1985年近畿大学大学院薬学研究科修了、薬学修士、同年、千寿製薬株式会社入社。1995年九州工業大学大学院情報工学研究科修了、情報工学博士。1997年、神戸クリエイティブセンター開発研究所長、2005年、神戸クリエイティブセンター長、2015年より現職。日本薬剤学会より製剤の達人(第8回)授与。
狙い通りに点眼薬を患部に届ける
点眼された薬が、眼内(房水)に到達するための移動距離は、わずかに2mm程度です。ところが、薬が房水に到達する確率は20分の1程度しかありません。
ヒトの眼球は、直径わずか25mm程度の小さな器官です。けれども、この小さな眼球が、生きていくために必要な情報の約80%を収集しています。それぐらい重要な役割を担っている眼球は、強固なバリア機能によって保護されているのです。
まず涙液が1分間に1.5~3μLほど流れ続けています。眼の表面の角膜にも100μLの涙液が常にあり、異物を排泄します。そのため1滴が30~50μLぐらいの点眼薬を眼にさしても、ただちに涙液によってその濃度は2分の1ぐらいまで希釈されます。さらに30~40秒ごとに薬の濃度は半減していくため、約5分で点眼薬の成分はすっかり流されてしまうのです。
また角膜は大きく3層構造となっています。そのうち「上皮」と「内皮」は疎水性の生体膜、「実質」は親水性の膜です。性質の異なる3つの膜を透過するためには、点眼薬は脂溶性と水溶性の両方の性質を備えなければなりません。
点眼薬を効率的に作用させるには、究極のドラッグデリバリーシステム(患部に適切に薬剤を届ける仕組み)が必要なのです。
なぜ薬学ではなく、情報工学の学位なのか
私は1985年に薬学部の修士課程を修了し、研究職として千寿製薬に入社しました。当社は眼科薬メーカーであり、売上の8割を医療用医薬品が占めています。1958年に発売した白内障治療剤「カタリン」が、成長に弾みをつけました。
ちょうど私が入社したころ、当社は米・ラトガーズ大学にいた経皮吸収の研究者、東條角治教授に共同研究を持ちかけていました。東條教授が取り組んでいたコンパートメントモデルに関する研究が、点眼薬にも適応可能と判断したからです。コンパートメントモデルとは、人体を1つの四角い部屋つまりコンパートメントと想定し、その中での薬物投与量と消失量の関係からバイオアベイラビリティ(人体に投与された薬物のうち、全身に循環する量)を考えるモデルです。
ところが当時、社内にはコンパートメントモデルを知る人はほとんどおらず、新入社員の私だけが大学院で少し経験していました。「これは興味深い研究だ、ぜひやらせてください」と思いきって手を上げた結果が、今につながっています。
研究テーマは、眼球内での薬の動態シミュレーションです。経口剤なら投与した薬剤が、体内のどこにどれだけ届いたかは、その部分の血中濃度を測ればわかります。ところが点眼剤の場合は、眼球内に入っている薬剤を測る術がありません。
東條先生の指導を受けて私は研究を始め、不明な点があるとFAXや国際電話でやりとりして教えを請いました。やがて先生が帰国して九州工業大学に赴任されると、同大学院の受託研究員として2年間研究に勤しみました。当時はPC98というデスクトップパソコンが主流だった時代です。これだと一晩かかった計算が、研究室に備えられたワークステーションならわずか1時間でできてしまい驚いたことを思い出します。
先生が考案されたのが、眼球内の薬物動態を記述する眼球拡散モデルです。これを発展させたシミュレータ「仮想眼(Virtual Eye)」を先生と共同で開発し、モデル解と動物実験の結果や臨床条件での観察結果との比較を行っています。この間の研究内容は、薬をテーマとしていながらも実質的な内容はコンピュータ・シミュレーション。ですから私の学位は情報工学なのです。
「目薬に“ええべべ”を着せてやれ」
オキュラーサイエンス研究所での役割について、以前私は現相談役から「大鳥くんな、君の仕事は創薬したものに“ええべべ”を着せることや」といわれたことがあります。“ええべべ”とは、良い着物を表す関西弁です。
つまり開発された化合物に適切な衣をまとわせて、眼球の中の患部にまで届ける。これが私の仕事です。とはいえ薬物が角膜を透過するためには、拡散、分配、タンパク質への結合をくぐり抜け、さらには酵素による代謝も防がなければなりません。しかも、常に涙液によって流されるのです。
難題をクリアするため、眼球内の薬物の動態をコンピュータ・シミュレーションにより解析しています。2004年に東條先生と取り組み始めたときには、眼球をx軸とy軸で40分割、つまり40✕40=1600セルに分割し、これに変数を取り込んだ1600の連立偏微分方程式を解いてシミュレーションしていました。もとより40メッシュぐらいでは、精緻な再現などできないことは承知の上ですが、これが当時のコンピュータによる計算能力の限界だったのです。
これが今では500メッシュ、つまり25万セルにまで細分化し計算できるようになりました。1000メッシュでの計算も時間をかければ可能なまでにコンピュータパワーが向上しています。今後5000メッシュぐらいまで細分化して計算できるようになれば、おそらく細胞レベルでのシミュレーションが可能になり、より精緻な計算結果を得られるはずです。
in vivoの結果と理論値を統合して考える
in vivo、つまり生体を用いた実験の結果で得られるのは、点眼した薬物の角膜、水晶体、網膜など眼球各組織の平均濃度です。これでは眼内濃度分布データは得られません。本来なら同じ角膜上でも位置により濃度は異なり、網膜も前後で同様に異なるはずです。とはいえ小さな眼の構成部位別に濃度を計測するのは、今の技術では不可能です。
一方でin vitro(=試験管内)で実験を行えば、シミュレートしたい物質の移動についてのパラメータはいくらでも得られます。こうしたパラメータを用いた計算結果をAIに学習させれば、シミュレーションの精度向上を期待できます。今後もし非破壊的な濃度分布観察技術が開発されれば、in vivoで得られるデータの精度が飛躍的に高まるでしょう。現時点でオキュラーサイエンス研究所には、フェーズ2に相当するPOC(Proof Of Cocept=研究開発中の新薬候補物質の有用性が、動物やヒトに投与した結果認められること)試験まで到達している化合物が2つあります。これを少しでも早く治療の最前線に届けたい。
研究所を神戸医療産業都市に移して以来、オープンイノベーションの加速を実感しています。イノベーションは、実にささいなきっかけから始まるものです。創薬フォーラムなどでの交流はネットワークを広げてくれるので、気づきを得る機会としてとても有効です。今後はさらに交流範囲を広げて、神戸発の革新的な眼科薬を創造する。これが東條先生から受け継いだ私の使命だと心得ています。